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結局は、私の無駄な思考の果てな訳で

何だか昨日の朝は徹夜明けのせいなのか、なんだか答えが見えたぞ!って感じに清々してたのですが、学校着く間ごちゃごちゃ考えてたらまたふりだしに戻りました。うわあんっ!

何故、嫌われたいのか。そこの部分を考えた時に、分かったことがあって。
以前はずっと、人に嫌われるのが怖かった時期があって、とにかく一人にならない方向を探してた。でも自分の普遍でない部分がどうしても私を一人にするし、友達と言うものが分からなかった。全く。
私は毎回無駄に物事についての定義を求めたがる質で、当時も友達と言うものがどういう存在で、どういうものなのか、それが全く分からない状態。
私は皆がいう「友人」はどうも友人には思えなかった。友情と言うものも分からないし理解出来てなかったから、何故それが友人と呼べるのかも分からない。
みんなが呼ぶ友人て、端から見てると結局、自分が一人にならない様にする為の寂しさガードで、ちょっとした些細なことで捨てたり取り替えたりしようと思う様なものだと、周りを見ていて思った。
とにかく自分ははぐれない、話題も何もかもちょうどいい人間を見つけて、親しくしておこう程度のものにしか見えない。特に、一人だと誰かのところに行く様な類いの人が、友達だの友情だの親友だの抜かしてるところを見ると、内心が嘲笑で溢れ返る程だった。話しかけた方も話しかけられた方も、なんて可哀想なんだろうって。
だから進路へ一つ進んだとき、私は受け身で居ることにした。
そもそもその卒業の前に、思考ばかりぐるぐる働いて、要らぬこと考えては妙に苛ついていた時期があって、きっと友人と呼んでいい部類の子達になんでもないことで嫌み言ってしまったりする時期があって。今思うと本当に謝りたいと後悔ばかりの時があった。
だから、私がこんな性格なら、きっと友達なんて出来ない。そう思って、もし私なんかでも声をかけてくれる人なら、こんな最悪の人種でも、と思って、受け身でいた。
案外友人は出来た。でも、やっぱり、私の思う友人であるかどうかは分からなかった。いや、今はほんの少し確信をしているかもしれない。でも、やっぱり、と自分で否定してしまう。
そんな時に考える友人定義。
親友を例えて、家族、なんて聞いたことがあった。でも、私にとっては家族は何となくの集まりであったし、以前のことがあって以来、すごい苦しみを与えられ続けたから、家族にそんな強い繋がりなんて見出せなかった。
だからなのか、私の中には友人と言う偶像がある。とても理想な形をした。
そのせいで、私は今も大抵の人を知り合いと呼ぶことしか出来ない。友人、友達という言葉に幻想抱いてるせいで、あまり安易に使いたくないと思うのだ。
友達じゃないか、友達だろ?そういう風に言われるのも嫌いで、友人なんてそんな軽い意味合いで使って欲しくない。大体あんたらは自分の孤独を紛らわす為に、自分の為に作った友人だろ、と内心で憤慨してた。何であんたと私があの崇高な友人の関係であると言えるのか、と。
友達の定義を考え始めた瞬間、私に友達と思える人はなく、自分に友達はいない様に思えてた。
そういうことをずっとぐるぐる考え始めると、自暴自棄になって、物事をくだらないと思う感情が外に出てきてしまう。
そういう自分が嫌で嫌で、でも死のうとは思わなかった。そんな下らないことで死んでたまるか。あんなやつの為に死んでやってたまるかと思った。
でも、やっぱりどこかで死にたがってるから、他殺されたいと思う。誰か、事故かなんかで、飽くまで不注意のうちに私を殺してしまえばいいと思ってる。
私の心は相当荒んでることだろう。でも、それが楽しいのだから、私は狂ってるのだと思う。やっぱり、狂っているの定義があやふやだから、私には分からないけど、狂ってるんじゃないかって思う。
いっその事、鬱とかになってりゃいいのに、と思う。
でも、どんなにネットでの検査をしても、中度にしかならなかった。でも少し嬉しかったけど。
そんなこんなで生きてきた私は、突然、去年の終わり辺りから、がらっと考え方が変わった。
嫌われることから、好かれることが苦痛になってしまった。
みんなは私に概念を持つ。正常な人。頭がいい。きちんとしてる。いい人。
全く違うのに、そういう人として私に接する。だから、つらかった。
とても、自分がいいやつだとは思えない。だってそれは、嫌われなくて全身に着けてたプロテクトで、中ではどんな風に相手を貶していたかも知れない人間だったから。
或いは、そのままばらさずに上手いこと世渡りしてけば良かったのかもしれない。でも、私をいい人だと褒めるその言葉に堪えられなかった。言われる度に本当の自分との差が明白に示されて、怖かった。
だから、いっそのこと、誰もが私を心の底から毛嫌いでもしてくれればいいのにって思った。
でも言われた。所謂友人と呼べるか判断出来ないと思ってた人に、私嫌いにならないよって。
言われた時は無感情だった。その後、恐ろしいと思った。そんな人を心の中でいつ貶すか分からないし、いつ傷つけるのかも分からない。そんで私をいい人だといってそう接してくるから辛い。
でも、家に帰ってから涙が出そうだった。
私は自分が何故泣くのか、その理由が分からない人だから、私が泣く時は、心が感情で一杯の時だと思ってる。その感情の出口が涙だと思ってるから。
私は相当に自分の感情に無頓着らしい。腹が立つのは感覚で分かるけど、その他はあやふや過ぎて分からない。
訳の分からない涙で、ちょっとすっきりした。
一昨日から昨日にかけての完徹で、一つだけ私の核になった考えがある。
善人になるのはやめた。公衆の善人で居る必要はない。
人に好かれる人は、その好く側の人によって都合のいい人物だ。
例えば、自分を嫌わない、とか役に立つ、とか方向性が同じとかでも自分に都合のいい人物といえる。
或いはもっと素晴らしい感情かもしれないけれど、私はまだそれを認められない。だから、皆に好かれる善人であることはやめて、公衆に対する善人で居ることをやめたい。
人へは、一人一人に対する善人、それも相手を良い方向へ持っていく人物でなければならないと思う。
自分の人間の目標が質実剛健である限り、利用される側であってはならないと思うから、努力を妨げを助長する様な人間になってはいけないと思う。
これで取り敢えず、一連のことに納得いった筈なんだけど、何だかまたもやもやし始めたよ。
ま、考える、故に人間である。だから、考えなくなったら終わりなんだろうけどね。

いや、吐き出したらすっきりした。
読んじゃった人、ごめんなさい。でも、こういう性分なんですぁ。

取り敢えず、
死 ん で き ま す … …

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